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日常的な事、ちょっと考えさせられるような事、まじめな事、不真面目な事、料理の事自転車の事等々等々、音楽の事以外の事を徒然と書き綴っていくつもりです。 が、どうなるかはわかりません。

親父の思い出話

親父のことについて、いつか書きたいと思っていたことがある。
親父は、もはや数少ない、戦前生まれでした。あと数年早く生まれていたら、学徒出陣に駆り出されていて、そうなったら俺はこの世にいなかったかもしれない。
親父と戦争の頃の話は比較的よくした。
空母加賀の二等兵の水兵と親父は友達になり、お兄ちゃんお兄ちゃんと懐いていたそうだ。無論その水兵は、ミッドウェイで命を落としている。
親父を連れて家族旅行で沖縄に行くという話が出たのだが、最後まで親父は積極的に行きたがらなかった。
何故なら、小学校の同級生が、「疎開」のために、沖縄に引越しし、消息不明となったからだ。そういったトラウマは、80を越えた当時の親父ですら持っているものだ。
親父は、戦争を本当に憎むというか、思想的にも、当時の帝国の在り方等についても、否定的だった。
戦争を、生身で見ていた親父のその思想に対してぼくはリアリティーがある、一つの意見として聞くことができる。
ぼく自身の見解として、大東亜戦争は、当時の国際常識と照らし合わせて、日本がとった政策は、取らざるを得ない政策であっただろうし、その結果もたらした日韓併合などにおいて、害だけでなく、効もあったとぼくは思っているし、多くの「欧米」の国の植民地支配に比べれば、マシだったのだろうと思う。
が、だからと言って、日本の「罪」は、なかったのだ、という意見にも賛成し難いのだが。
俺の親父は、そういった先の大戦の体験談を語れる貴重な生き字引であった。
あと、ほとんど読めない漢字がなかった。凄まじい漢字力であった。
あれは昭和一桁にしかできないわ。
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  1. 2019/08/16(金) 23:12:06|
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父である中村洋一こと、中村希山(尺八)が他界しました。

2019.8.12 午前10:50分ごろ、父親である中村洋一が他界しました。
尺八名は中村希山といいました。享年89才。大往生でした。
生前、皆様にはひとかたならぬご厚情を賜りまして、誠にありがとうございました。
父は、生まれた時から、死線をさまようような生き方をしてきました。
5才でトラックにはねられ、戦争中を生き延び、成人してからは慢性的な肝炎に悩まされ、2度の癌から生還し、そして89才で肺炎で倒れてからも、何度も危篤から回復し、その度に我々はやきもきしたのです。
低空飛行ながら、生命力を持ち続けた人でした。

7月に入り、父が倒れた時、僕はずっとツアー中でした。
音楽の仕事とは、親が死んでもその現場を離れることができない、ある意味冷酷で、シビアな世界です。無論、エキストラが立てられる仕事も多々ありますが、僕にはそのような仕事は少ない。
何度目かの危篤の時に、ずっと親父を面倒見てくれていた弟に、葬儀に立ち会えない可能性について話しました。弟は、立ち会ってほしいが、判断は兄に委ねる。が、そのようなことにはならないのではないかな、といった。その通りになり、我々兄弟三人は親父を見送ることができた。

父と僕は、それほどに関係が親密であったわけではない。
親父と二人で出かけたような記憶は皆無だし、話をした記憶もほとんどない。
音楽に対して深く語り合ったこともほとんどなかった。

ただ、僕と父のやることなすことはとても似ていたらしい。
売れるようなことに対して一切の興味を持たなかった。
母曰く、くだらない楽曲を書いて、東京のコマーシャルなシーンでお金になる仕事を得るチャンスはいっぱいあったらしいが、見向きもしなかった。
その代わり、半世紀にかけて自分の文字通り人生を賭けた全55曲にのぼる組曲「東海道五拾三次」を完成させた。
親父はそれを完成させた時点ですでに85を超えていたと思う。
楽曲のレコーデイングは、田辺 頌山さん、藤原道山さんはじめとして邦楽界のトップの面々にお願いしてのものであったが、それに親父は立ち会う体力はもうなかった。
数ヶ月に及ぶレコーディングに僕は立ち会える限り立ち会った。
僕はほとんどレコーディングに対して何も指示などしていない。ただ立ち会っただけ、ただそれだけのことをしただけですが、それが親父と僕との直接的な関わりの最も大きかったことなのではないかな、と思います。
その楽曲は古典的な邦楽のフォーマットに則っていて、特に難しい調性や調弦を使っているわけではないのだけど、ひたすら変な曲のオンパレード、どこかに何らかのひねりが加えられている。
アーティストに必要な集中力には、短、中、長期的なものがそれぞれ必要だと思う。
親父は、一生かけてそれに取り組むことができる、長期的な集中力を死ぬまで失わなかった。
本当に、死の直前まで、楽曲を書き続けた。
その一点だけにおいても、僕はアーティストとして、中村洋一を尊敬する。
おそらくは、僕は無意識のうちに父の背中を見て育ったのだと思う。
必ずウォーミングアップで演奏するメロディー、練習している、変なフレージング、ピアノを触りながら、ああでもないこうでもないと作曲している音。今思えば僕はそれらの音を無意識に取り込んでいたはずだ。

弟妹三人は京都大学法学部を現役で入学するほど勉強ができたこともあり、一流会社に勤め、現在では僕の年収ぐらいの月収があり、親の自慢の二人であるし、親父の最後をずっと面倒見てくれたことに対して僕自身も感謝している。

僕は彼らより一般的な通念から見れば、はるかに劣る存在ではあるが、こと父と僕、という二人の関係においては、ジャンルは違えど、父の跡をついだのは僕だ。おそらくはその部分においては、父は喜んでいてくれていた、と僕は信じている。

死の2ヶ月ほど前に、僕の東松山の新居に、中村の親族全員が集まって、バーベキューをすることができた。
妹家族四人、弟家族三人、僕と和音、そして両親。

また夏にやろうね、そう話して楽しい時間を過ごし別れた。

今となっては、その開催が出来たのもなんらかの思し召しであったと思う。

親父よ、安らかに眠っててくれ。
そして、覚えているかな?天国のピンクの柱のところで集合な。それまで待っててくれ。






  1. 2019/08/15(木) 17:15:08|
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