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日常的な事、ちょっと考えさせられるような事、まじめな事、不真面目な事、料理の事自転車の事等々等々、音楽の事以外の事を徒然と書き綴っていくつもりです。 が、どうなるかはわかりません。

一連の北朝鮮の事からこれからの世の中の在り方について考えてみた。

北朝鮮のことについて。

古来から高句麗等の名の国家として、大国中国との政治的なやり取り、時には武力による戦争に巻き込まれたり、駆り出されたり、様々なやり取りがあったことは容易に想像つく。
そして近年では、米ソの代理戦争の餌食になり、国家を分断された。国家を分断といっても、朝鮮半島自体は、日本のように長年統一された国家であったわけではない。韓国国内では、新羅と百済のお互いに対する差別感情は、反日感情のレベルではないという話を聞いたことがある。
いずれにせよ、外交、という意味合いにおいて、日本とは「キャリア」が違う北朝鮮の外交の在り方は、やってきたことの正誤に関わらず、お見事といわざるを得ないだろう。
原子力という「おもちゃ」の取り扱いを、かの国は、かの国の国家規模の国家の使い方として、お見事に使いこなした、といっていいだろう。
明確な戦略目的をもって、戦術的要素を的確に行使し、戦略目的を遂行した、ということだ。

そもそも、国家間のやり取りにおいて、正誤、という概念は存在しないと思う。少なくとも、現在の国家の在り方、においては、正しいも間違いも、正義も存在しない。
北朝鮮は日本人を拉致している。狂っているとしか言いようがない。
米国はイラクに限らず、ベトナム、朝鮮半島、中東等において、いったい何百万人の人間を殺害してきただろうか?狂っているとしか言いようがない。
中国がチベットに対して行っていること、狂っているとしか言いようがない。
世の中の、あらゆる国家の名のものに行われている、紛争それ自体は、人間の道義というものを尺度にした場合、完全に狂っている。

日本だって大概のことを外国にしてきている。韓国の養鰻業者に注文を出す。それを直前でキャンセルする。そこに別の日本の企業が乗り出してきて、安く買い叩く。
北方領土の是非の問題はともかくとして、ロシアの領海に侵入してカニを取りまくる。拿捕を逃れるのは、ロシアの警備艇よりも日本の漁船のほうが、少しだけエンジンの性能がいいから。それでもたまに拿捕されることはニュースになる。
中国の漁船が日本領海で魚を取っていることは報道されるが、逆はは報道されることはまれだ。
だがそれでも、日本は幸いにして、憲法9条により、兵器を持てないので、無論それを行使することはない。
何度も言うが、この現世における、国家の在り方において、正誤も正義も存在しないこの世の中において、武力を持たないでいる、ということは、それだけで、人間の道義を尺度とした場合、他の国家に比べ、何百万倍も、進歩した考え方と、世界に範たる行動をしている、ということが言える。

現世において、国家がそこに必然的確信的に悪をはらまねばならないその理由はたった一つ。
国家が物質的な利益を求める機構であるからだ。
アメリカは解っていてイラクを侵略した。言い訳は必要であったが、確信犯として、イラクで殺害行為を行った。
オサマビンラディンは5000人をWTCで殺害したが、その罪は裁判所で明らかにするべき問題であるはずだ。それを、米軍は暗殺した。
兎も角、これらの確信的な殺人の全ては、米国が利益を享受する為、以外の理由は存在しない。

利益というものを、物質的なものから精神的なものへ転換しよう。
音楽であったり、芸術であったり、または何らかの贈与であったり。
教育もそれに含まれるかもしれない。
そんなことをしたら、国家は成り立たないではないか?国家的に利益を求めるのは当然だろう!そういう声は当然のことだろう。

だが、本当に当然だろうか??
アジアやアフリカで貧困を抱える人々が存在する。世界規模で、富が極端に偏在していることは少し想像力を働かせればわかることだ。
それは無視していいことなのか?

僕にとって、この日本で起こる様々な天災は、他人事ではない。日田の水害も北海道の吹雪も、沖縄の台風も、広島の地滑りも、東北の震災も、熊本の地震も、すべては僕にとって「友達」に起っている災厄なのだ。
僕は全国を旅してきた。だから全日本に友達がいる。

その先少しだけ想像力を働かせてほしい。
イラクで名前を持たずに死んでいった子供は、誰かの大切な子供なんだ。
アフリカで飢えで死んでいる、ポリオのワクチンがなく死んでいく子供は、誰かの大切な友達なんだ。インドで物乞いをする老人も、誰かの大切なお父さんだったのかもしれない。
そのことを想像したときに、心の中に起こる、小さな、ほんの小さな心の動き、それを皆が共有したときに、国家が利益を得るということは、どこかで損益が生まれていて、そこで誰かが死んでるかもしれない、ということに想像を馳せた時に、国家が利益を上げること自体が、本当に意味を持つことではなく、国家というものの存在意義が本当の意味で、悪をはらまない、精神的な価値を希求する存在と、進化するときなのではないだろうか?

富は所有するものではなく、シェアするものなのではないだろうか?

日本は大東亜を欧米帝国主義から解放するために、正義の戦いをした、という建前は存在する。であれば、日本は、あの戦争に勝ったといえる。欧米は、その戦略的目的を果たすことが出来なかったといえる。
日本は韓国や朝鮮、中国との経済的な競争を行っていると思う。これは、言い換えれば利益の奪い合いだ。
そういう争いから、世界に先んじて一歩足を引いてみたらいいと思う。
日本には十分に富はある。これ以上富を増やす必要はない。
企業が、利益を享受しなければ存在しえない、というのは、「思い込み」だ。

こんな話を聞いたことがある。お金持ちがいる。その人は乗りもしないフェラーリなどの高級車を10台以上保有している。その乗らない車の維持の為に、時々その車にエンジンをかけて乗ってくれる人を雇っているそうだ。
僕ならば、そのフェラーリ台分のお金を使って、何らかの財団を作る。例えば芸術的な財団であったとしたら、その人は、ある意味で芸術家という芸術品を「所有」することが出来る。
その価値は、乗りもしないフェラーリよりも高いという、そういう価値観を我々芸術家は広く社会に浸透させていく仕事を、人より先んじてしなければならない。
そこに僕は、極端な利益を求めたくはない。
僕は食べていければそれでいい。乗りもしないフェラーリなど僕には必要がない。
日本は、国家レベルで乗りもしないフェラーリを求めて、あたかもそれが正義であるかのように錯覚している。いや、国民の多くはそれを信じさせられている。

好むと好まざるとに関わらず、人類の精神性は進化する。しかし、我々芸術家は小さな力かもしれないが、それを推進させていく宿命があると、僕は思っている。








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  1. 2018/06/13(水) 14:40:56|
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